■火の太鼓伝説記
 国大陸から我が国へ太鼓が渡来したのは仁皇二十六代継体天皇北陸治政の頃(西紀五百年)と伝えられている。
 その頃、継体天皇の王城の地は、越前三国町の高台に在って、ここを中心に天皇の北陸平定という大偉業が完成したのである。
 天皇は、将兵の志気を鼓舞するために、御自ら戦陣太鼓を考案され、敵陣を威圧する目的を以って軍鼓を打ち鳴らして戦意を高揚した。いわゆる三国町の太鼓の歴史は、既に千五百年以前に発祥したのである。
 来、三国町では天皇が中央(大和地方)へ進出された後も、太鼓の儀を 長く後代へ伝え残そうと、折々工夫と改良を積み重ねて、現在保存されている三国太鼓の原形を確立した。さらに、徳川時代には全国津々浦々より廻船してくる大型商船(七百石以上)が三国港へ入港する度に港便役の仲仕組 若人たちによって歓迎太鼓を打ち鳴らし、それらの入港船を祝福して商売繁昌を祈願した。
 の太鼓の伝説は、いまから三百有余年前、越前宰相松平忠直卿(1595-1650)御治世末期に、不幸にも三国浦を襲った古来未曾有の大嵐が、六十余日間吹き荒れて、港内出入港の船足を止め、近海漁業の漁夫達の操業をも断ってしまった。そのため漁夫たちは餓死寸前の貧苦を余儀なくされ、死を待つばかり の状態にまで追い詰められたのである。
 ときの港問丸(町長)は、それを大いに苦慮し、早速各町村へ布令を発して庄屋達を我が家へ招集して対策を協議した。
 『これ即ち海神の怒りならん。我等町民結集して心身を新たにし、天の 香具山の火を焚き、大太鼓を打ち鳴らして神の心を鎮め奉つらん』と衆議 一決した翌早朝、三国浦辺にて高く火を焚き、燃え上がる炎、天に通じよとばかりに全町民、若人たちを先導に三日三晩、大太鼓を打ち鳴らし続けた ところ、さしもの大荒れもようやく鎮まり、波おさまって再び平安の日が 三国浦へ戻った来た。
 やがて漁夫たちは歓び勇んで梶をとり、竿も立てて綱どりにと、青海原へ出漁して行ったが不思議なことにその日を境に来る日も来る日も大漁が続 いて尊い人命をそこなわずにすんだ。
 説は、いまも尚往時を偲んで長く残されている。
 以来三国町では、毎年一月七日を、火の太鼓奉納の日と定めて、昼夜神 火を焚き、各町若者たちによって競い太鼓を打ち鳴らし、それを年頭の儀として今日に至った。
 火の太鼓の符は、口伝によって代々継承されたもので、勿論、伝書では ない。
 いま三国町に於ける太鼓の符は、大別して五種目を保存しているが、現代 も尚、貴重なる伝承者が数多くいて、それらの調べを巧みにたたき分けて、 優雅なる伝統を誇っているのである。

東尋坊荒波乱れ打ち
三国港大船歓迎仮面太鼓
五穀豊穣九頭竜流し太鼓
商売繁昌祈願太鼓
演ホの太鼓
(無形文化財三国火の太鼓保存会 火の太鼓伝説記より)
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